行山流水戸辺鹿子躍り(ぎょうざんりゅうみとべししおどり)─発祥の地

行山流鹿踊りの発祥の地の石碑が、あの大津波で流されていないことを神宮威一郎さんのHPで知り出かけてまいりました。神宮様に厚く御礼申し上げます。(19日)


津波で甚大な被害を受けた浜を見下ろす高台にありました。

浜のようす


付近の方の話では、横倒しになって土地の人も気づかなかった状態のものを、立て直したものとのこと。碑文は朽ちて、肉眼ではほとんど見れませんでしたが、墓碑がいくつもあったので、もしかすると躍り手たちの墓所が、海を見下ろす高台にあったのかも知れません。下記の動画にみるように、この地に津波がとどかなかったことで、水戸辺鹿子躍り復興の支えになっているようでよかったです。

  (グーグルアースより)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120123/art12012308120002-n1.htm


                             (水戸辺漁港)
http://www.kakitoku.co.jp/tsunami.html
Twitter. It's what's happening.
◎神宮様の水戸辺記
被災地の神社・寺院の状況
水戸辺自治

                  (戸倉神社より戸倉横津橋方面を望む)
【データ】
「旧伊達領北部に伝わる「行山流」の鹿子踊りは、水戸辺村の住人であった伊藤伴内持遠が元祖とされています。一関市舞川(旧相川村)に伝わる巻物によると、伊藤伴内から弟の五郎と三介に伝えられた鹿子踊りは、平磯浜の千葉平九郎、入谷村の安倍四郎兵衛に伝授され、さらに平九郎を通じて相川村の吉田猪太郎に伝えられたと記されており、巻末には元禄十三(1700)年七月吉日の日付とともに持遠の花押が添えられています。後に四郎兵衛のいた入谷村が伊達藩養蚕業の中心地として栄えるようになると、胆沢、磐井、気仙などの諸地域との結び付きが強まり、それによって「行山流」と称される鹿子踊りが今日見られるように広く各地に伝播されたものと考えられます。行山流発祥の地である水戸辺、入谷とも鹿子踊りは途絶えていましたが、昭和五十七年に水戸辺集落を見おろす高台の土中から「奉一切有為法躍供養也 享保辰年 本吉郡水戸辺村敬白」と刻まれた石碑が発見されました。「世のなかに存在するすべてのもの(一切有為法)のために、躍りをもって供養し奉るものである」と解釈されます。この供養碑の発見を機に獅子踊り復活の機運が高まり、平成三年四月一日に行山流水戸辺鹿子躍保存会が発足、伊藤伴内直系の躍りを伝える舞川鹿子躍保存会からの手厚い指導のもと、平成四年七月に地区水戸辺の人々に初披露、八月十四日には菩提寺である慈眼寺にて躍供養として奉納し、平成五年九月には復活の「庭揃え」となりました。」(下記「南三陸観光データベース」より)
http://www.m-kankou.jp/kanko/index3.php?id=62



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戸倉の海岸公園 モアイ像のまわりでも復旧工事?が始まっていました。