中世都市研究会平泉大会─都市のかたち─


  一ノ関駅 世界遺産登録 “いけそう”な 虹雲

月館大師堂

伝慈覚大師作伝教大師最澄)像
藤原秀衡の頃、北上川東岸にも花開いた仏教石造文化が遺されていた。
また、世界遺産平泉にふさわしい景観が見出されたことになる。
(狭川真一「平泉の石造文化」による)

兵たちの時代 2 兵たちの生活文化

兵たちの時代 2 兵たちの生活文化


 きれいになった柳之御所遺跡。砂利敷が建物跡の仮整備。
向こうに束稲山。

  北上川
久しぶりの中世都市研究会
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/shinichi/2010toshiken.htm
八重樫さんの回顧と問題提起

古川さんの画期的な多賀城終末論「11・12世紀の陸奥国府と府中」
【11・12世紀の多賀城は政庁(儀式の場)を中核として城内各地に諸職や在庁官人居館が点在し、さらに城外東方には寺社関係者が集住する領域を想定することかできる。「城内」は中世多賀国府の中核的領域の原形である】(資料集『都市のかたち─権力と領域─』より要約)
多賀城は10世紀後半に廃絶」という定説
古代東北統治の拠点・多賀城 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
は明確に変更されたことになる。・・もっとも出土土器・陶磁器からは予察されていたことではあった
多賀城跡―古代国家の東北支配の要衝 (日本の遺跡)

多賀城跡―古代国家の東北支配の要衝 (日本の遺跡)

が・・ここまで来るのに長かった・・(『よみがえる中世7  みちのくの都』1992年)
なお、中世国衙が分散型である可能性については、2003年に白鳥良一氏の先駆的指摘がある(「多賀城から中世国府へ」『白い国の詩 2003 11』)。
 蛇足だが「府中」の言葉が当地に対して使われるのは、南北朝期だったと思う。北畠と吉良の「国府」争奪戦にには「府中城」が登場する。
みちのくの都 多賀城・松島 (よみがえる中世)

みちのくの都 多賀城・松島 (よみがえる中世)

文献上は、「多賀城」の名は、貞観11(869)年の陸奥国地震の記事(『日本三代実録』)を最後に消えるるが、『多賀城政庁跡 補遺編』(宮城県多賀城跡調査研究所2010.3)によれば、陸奥国地震後に政庁は復興し、11世紀前半まで存続する。そして、政庁周辺にはその後、14世紀初めまでの土器・国産陶器・貿易陶磁器が出土する。ここまでが多賀城跡調査研究所の新見解である。
宮城県多賀城跡調査研究所
http://www.thm.pref.miyagi.jp/kenkyusyo/investigation.htm
さらに古川氏は、11〜12世紀において五万崎地区についての留守所等中枢的な施設があり、大畑・作貫地区には国衙所職・在庁官人の居館地区とする等踏み込んだ見解を述べられた。結論的には、これが王朝国家体制の転換期に留守所を中心とした国衙機構に再編された姿と考えたわけである。まずは、明確な遺構の発見と遺構・遺物を用いた論文化が大いに期待される。
 「多賀国府」の名は康治2(1143)年に登場する(『台記』)が、12世紀、奥州藤原氏の活動と並行する陸奥国府は、「中世的な国府」の在り方を示しているのことになる。

         (東光寺の嘉暦二年(1327)板碑)
なお、13世紀には七北田川沿いの微高地、多賀城市新田遺跡から仙台市宮城野区岩切鴻ノ巣遺跡にかけての濃密な遺構・遺物の集中、東光寺周辺の霊場化、さらに名取川流域でもトップクラスの遺構・遺物規模の王ノ壇遺跡を頂点にした展開があるのは先行研究にみる通りであり、11・12・13世紀の画期が確認されたことになる。
・岩切
 http://d.hatena.ne.jp/tenti/searchdiary?word=%B4%E4%C0%DA
七海先生の「多賀国府の復興」的まちづくり・探題の系譜という伊達政宗の意図まで射程に入れた壮大な論も、この多賀城跡の調査成果を取り込めば。初日だけでも、全体として古代から中世のミッシングリンクがつながり、『よみがえる中世 みちのくの都』パートⅡの予感する刺激的な一日であった。先代の亡き網野・石井・大三輪先生方も喜んでいるでしょう。事務局の皆様おつかれさまでした。

二日目の討論はどうだったのであろうか。

        残光


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