『中世の聖地・霊場』 に寄せて

(松島雄島「御島」)
東北中世考古学叢書5として『中世の聖地・霊場』(高志書院・東北中世考古学会編)が刊行された。表紙の右肩に書かれた【在地霊場論の課題】が本書の視角を示している。広大な東北地方の中世の「霊場的な場」の様相を初めてまとめただけではなく、その探求は中世人の心性の一端に到達している。例えば「霊場名取熊野の麓の名取川の河原では、熊野堂の僧・聖の指導のもとに、(当時成長しつつあった)有力な商人や農民が、この世とあの世の幸福を祈って河原石に仏のシンボルを刻んだ供養碑を次々と造立していった」というイメージをおぼろげながら浮かべることができる。
(名取熊野新宮社 現熊野神社)

(航空写真で見ると名取川の「八ッ口」が分かる)
いままで鎌倉・室町時代の人々の精神世界のイメージは主に文献史学の成果から、「念仏を唱えれば極楽浄土へ」的世界であった(研究者の世界は別として)のだが、東北地方だけでも1万基を越える「板碑」(石製卒塔婆)と呼ばれる供養碑が確認され、その集中ブロックの多くが「この世の浄土であり、浄土への入口」である「霊場」と呼びうる場所であることが明らかとなってきたことから、中世の人々の「霊場」に板碑を立て、納骨し、極楽往生を願うという具体的な営みが明らかになってきた。
(東光寺境内の板碑)
本書は東北中世考古学会の昨年度の研究大会の成果であり、参加した多くの文献史学研究者との協働の成果(大会の資料集から大幅に加筆・練り直されているものが多い)。特に松島(七海氏の鎌倉禅律界と直結する松島寺支配の過程論+新野氏の当時の海岸線の復元・瑞巌寺境内遺跡調査の最新報告)、名取熊野(鴇崎氏の板碑分布論を基にした高橋氏の「開かれた霊場」説)などは考古学・文献史学双方からの重要な論が提示され注目される。ただし同地域がⅠ部とⅡ部に別れて掲載され、復元像を結びにくいのが構成上の難点。
(東光寺西平場の嘉暦二年1327大型板碑)
これらの成果については先に紹介した今年の東北中世考古学研究大会での佐藤弘夫氏が発言されていることである。氏によれば板碑は「霊魂を彼岸に送り届けるための装置」であり、「霊場に納骨したり、行かなければ、そして仏のシンボルである石塔を立てなければ、極楽に往生できない」という当時支配的な考え方を否定し、直接、仏と向き合うという、あらゆる階層の人々が極楽往生できる思想を切り開いたことこそ法然親鸞のラディカルさであるという。日本各地に発生した「霊場」や「石塔・板碑」を前提としてはじめて法然親鸞の革新性が分かるというわけである。なお、本書で弘夫氏は中世後期から死者は墓地に眠るという変質が起こり、民俗学でいう「霊魂の集まる地」としての「霊場」は近世以降の霊場のイメージを踏まえたものとする。

起請文の精神史-中世の神仏世界 (講談社選書メチエ)

起請文の精神史-中世の神仏世界 (講談社選書メチエ)

これらの前提となる東北地方の板碑の研究は、膨大なものであるが2001年に刊行された『中世奥羽と板碑の世界』(高志書院)にまとめられている。板碑を含めた「石塔」は中世のシンボルともいわれるほどたくさん立てられたが。東日本では「板碑」が主力であり、確認されただけでも5万基といわれる。東北地方では宮城県が最も多く5000基を越える(しかも東北地方と関東の板碑の在りかたは必ずしも同じではない)。このうち集中ブロックの大規模なものは仙台平野に集中し、多い順に①名取熊野と麓の名取川沿い(地区設定の仕方によるが400基を越す)②松島(雄島170基以上+現瑞巌寺付近50基以上=220基以上)③岩切東光寺付近(「羽黒前」など連続する丘陵部を含め150基を越す。国府の西北端と考えられている)である。
中世奥羽と板碑の世界 (奥羽史研究叢書 (1))

中世奥羽と板碑の世界 (奥羽史研究叢書 (1))

高志書院http://www.koshi-s.jp/

   (東光寺石窟仏)
ただし、霊場が板碑群に特徴付けられるのは13世紀後半以降である。昨年、松島雄島の南端で発掘調査された少なくとも13世紀前半に遡る骨蔵器群の発見は、霊場に納骨し、極楽往生を願う習俗が支配者層(渥美の骨蔵器や白磁・青白磁合子の出土から)によりすでに開始されていたことを示している。


   (七北田川より東光寺を望む)
岩切の東光寺にある石窟仏や西平場の大型板碑はようやく市指定遺跡となった。白鳥の飛来する美しい七北田川(冠川)の景観があってこそである。

・地図や航空写真をみると川や海に張り出した景色のよいところで比較的近くには大きな集落があって、水(川・海)陸の交通路によって結ばれているようです。
中世の聖地・霊場―在地霊場論の課題 (東北中世考古学叢書 (5))

中世の聖地・霊場―在地霊場論の課題 (東北中世考古学叢書 (5))