野蒜築港跡の今

東松島市浜市付近

東松島市史跡野蒜築港跡(野蒜築港中央公園跡)標柱

              合掌

「野蒜築港については、きちんとした研究の蓄積がなく、いまなお幻のヴェールに包まれている感がある。(中略)じつはこのたびの東日本大震災によって、野蒜築港にかかわる、わずかに残されていた記憶のモニュメントのほとんどは、破壊されてしまった。
鳴瀬川の河口に開けた新町地区は、十メートルを越える津波によって壊滅的被害を受けている。新町コミュニティセンターの二階には野蒜築港資料室があったが、この建物も被災し、資料の多くは流されたようだ。
(中略)(築港の時代)旅館や料理屋が立ち並び、遊郭があったという。そんな記憶もはるかに遠ざかり、いま静かな海辺のまちは津波の底に沈んだ。」

3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する (新潮選書)

3・11から考える「この国のかたち」―東北学を再建する (新潮選書)

野蒜築港跡を観にいった理由である。
赤坂憲雄氏の文は続く。
(中略)この巨大プロジェクトの推進者は大久保利通だった。戊辰戦争による傷跡が残る東北地方を、政治的に慰撫するためであったか、明治政府は東北開発の一環として野蒜築港プロジェクトを立ち上げる。(中略)内港の施設はとりあえず整ったが明治十七年秋の台風によって、東側突堤が決壊すると、もはや巨費を投じて外港の築造へと向かう動きは生まれなかった。松方正義の緊縮財政下にあって、野蒜築港は中止へと追い込まれたのである。失敗の理由はさまざまに詮索されてきたが、それは措く。」と。


        鳴瀬川河口から北上運河岸にかけて津波被災復旧工事中


            下の橋橋脚の煉瓦に緑草在り

(下の橋橋脚)

(対岸から)


なんという枝ぶりであろうか・・

黒澤敬徳碑は残った
kasen.net 内務一等属黒澤敬徳碑


野蒜測候所の碑


海岸の東日本大震災慰霊の卒塔婆も..


東側の北上運河 美しい・

その内側は沼地となったか......


北側にある石上神社地
石上神社 (東松島市)



浜市小学校を望む

付近の浜市小学校 時計が「あの時で止まっている」
asahi.com(朝日新聞社):〈学びと震災〉先生ら機転 犠牲者ゼロ 宮城県東松島・浜市小 - 小中学校ニュース - 教育


野蒜築港資料室(新町公民館)の現状.....

鳴瀬川西岸にあります。早く行くべでした...

白鬚神社地(新町公民館の南側の浜近く)

赤坂氏はさらに気がかりな文章を残す。
「(中略)いま東北の地では、あのときとまったく瓜二つの光景が起こりつつあるのではないか、と(中略)野蒜はそうして、敗者の精神史を背負った特別な場所となり、それゆえに、土地の記憶の中からは遠ざけられ忘却されていったのではなかったか。」と。
されど、地中に今なお、野蒜築港の痕跡は残っている。
そしていつか発掘調査によって現実となり、遺跡は整備され公開される日がくると思いたい。(2012.10.21付記)

(付近の水路工事)
【参考リンク】
野蒜築港 - Wikipedia
http://members2.jcom.home.ne.jp/walklandsendai/nobirutikkoutop.html
野蒜築港跡を活用した地域活動
http://nach01.ddo.jp/DM-miyagi/page/rekisi/iseki/index.htm

謝辞
皆様 60万アクセスをたまわりまことに有難うございました。
今後とも東北の地にて、歴史文化の視点から
主に写真を用いて「役に立つブログ」を目指しますので
よろしくお願いいたします。