『起請文の精神史 中世世界の神と仏』を読む

久しぶりに読んだ甲斐のある本。起請文とは神仏に誓い、その誓約を破ったらその神仏の罰を受けても良いと記した文書。マニアックな題に関わらず出だしが素晴らしい。「「中世」といわれる時代に、この列島の上に生を営んだ人々の心をのぞき込もうというのがこの旅の目的なのです。(中略)一部の研究者だけが特権的に見ることのできるこの異界の風景をできる限り多くの方々に見ていただきたい」と始まる著者の一般読者への呼びかけに始まる、なみなみならぬ意気込みが伝わる力作であった。
佐藤弘夫氏はいわゆる新仏教の名僧でなく、多くの人々に共有されていた世界観・宇宙像を探るため起請文を「思想的座標軸」としようとしたわけですが、その探求は中世思想史の最先端といえるものでした。

起請文の精神史-中世の神仏世界 (講談社選書メチエ)

起請文の精神史-中世の神仏世界 (講談社選書メチエ)

結論は四聖(仏、菩薩、明王、縁覚・声聞)及び天(梵天・帝釈・閻魔...仏像・神祇・祖師)という仏教的世界観(十界論)が中世人のコスモロジーの骨格をなしていたというものであり、さらに実際的な中世人のコスモロジーは前者の「あの世の仏」が究極の救済を担当し、後者の「この世の神仏」が起請文に記されて自らを監視していたとする。さらに垂迹の定義を「この世の神仏」を「あの世の仏」がこの世の衆生を救うため具体的な姿をとって出現したものとみなす思想と捉え直し、中世(前期)人にとっては浄土信仰の中で聖人・祖師・疫神・彫像・絵像までも仏菩薩の末法の世に垂迹したのであり、「垂迹」は実は世界的な思考パターン(神の子イエス..)とする。

神社の地までもがこの世の浄土であり、浄土への入口であった中世前期において、わが仙台、東光寺の板碑の例が掲げられ、「新しい垂迹のシンボル」が板碑をはじめとする石塔であるという指摘は新鮮である。ただし、もう一つのキーワードである「聖地納骨」については「なぜ納骨なのか」と言う点に突っ込んでおらず、今後の探求の進展が期待される。
念仏の聖者 法然 (日本の名僧) 親鸞とその時代 親鸞 決定版 ひろさちやの「親鸞」を読む 歎異抄 (講談社学術文庫)
【「信心の行者には、天神地祇も敬服し」という『歎異抄』(唯円)の言葉に著者は親鸞の専修念仏の切り開いた思想的達成を読み取る】
もっとも、この本のダイナミクスはこれらを背景として法然親鸞のラディカルさを浮彫りにしたところにあるようだ。すなわち、この時代の「救済」に不可欠の役割をになう「垂迹」を救済の体系から排除し、「彼岸の本仏」と直接向き合うべしとした点にある。そしてその理由を垂迹の信仰がもたらす差別(女人禁制・底辺の人々)や仏像造立と荘厳を重んずる信仰態度への批判とする。ここまでくると見事という反面、筆者がものを述べるレベルではない。著者のいう通りとすれば法然親鸞はあの時代にあってすごいと思う。