出羽三山信仰の成立に画期的問題提起

「熊野信仰と東北」展は仏像が一つのメインとキーワードになる展示(東北歴史博物館9月10日まで)。      全国に「3135」社もある熊野神社の約四分の一は東北地方にあるという(熊野三山協議会)。熊野が世界遺産になったせいか昨年秋の神奈川県博の「聖地へのあこがれ─中世東国の熊野信仰」に続く熊野に関する大型企画展。
ポケットに入れていた手を思わず正す小松観音堂千手観音菩薩の姿。『今昔物語』で生身の地蔵菩薩蔵念(平将門の孫良門の子とされる)の居た所か? そのうち「慈覚大師円仁ゆかりの」「左手に未敷蓮華(みふれんげ ハスのつぼみ)を持ち、右手を蓮華に添える」羽黒本地仏聖観音像の説明がどういう意味か気になり、図録を買って帰る(内容の割りに安い1890円! ただし図版は『聖地へのあこがれ』の方が鮮明で、解説も分かりやすい)。
(左『聖地へのあこがれ』右『熊野信仰と東北』図録)
図録には政次浩氏の「東北地方の熊野信仰と出羽三山信仰についての覚書」論文が掲載されていた。そこには「出羽三山信仰は熊野信仰に基づき出羽国(において受容し、その「地理的・歴史的環境に即して変容せしめたもの」)で平安時代末期(12世紀)頃までに創出された」という東北地方の熊野信仰と出羽三山信仰を理解するうえで画期的な指摘があった。羽黒修験は『吾妻鏡』承元三年(1209)に「羽黒山衆徒」とあり、宮家氏が「アジール的な武力集団」と評するように鎌倉初期には確固たる勢力を形成していた。学史的にはすでに宮家準氏が『羽黒修験─その歴史と峰入』において現在の冬の峰結願の神事を「羽黒山から熊野が独立した故事を示す」とし、五来重氏は『山の宗教 修験道講義』で延慶三年(1310)勝尊が那智から寂光寺に来て、常火堂を造ったと言う記事から羽黒修験の形成に熊野が大きな力を持っていたと指摘しているのであるが政次氏の指摘はさらに確立年代を絞り込み、今回の調査と専門の仏像学の視点に基づいて整理されたもののようだ。

羽黒修験―その歴史と峰入

羽黒修験―その歴史と峰入