慈覚大師円仁の法系

重要なその根拠は出羽三山信仰では熊野と共通する観音(羽黒山)・薬師(葉山・鳥海山)・阿弥陀(月山)の本地仏のうち観音を千手観音から聖観音に変更しているが、像容が「慈覚大師円仁ゆかり」の比叡山延暦寺川根本中堂本尊が用いられていることから「円仁とゆかりの深い出羽国の実情に合わせたこと、彼の法系に連なる勢力が関与したことが推測される」としている。そして観音、薬師、阿弥陀の三尊(三山)浄土が各地にある東北地方は「そのものが三尊(三山)浄土である」と結ぶ。
http://event.yomiuri.co.jp/2006/tendai/works_kaisetsu.htm
東北歴博秋田県博の綿密な合同調査と氏の慧眼に感心しながら、私が強調したいのは、むろん円仁は9世紀(794-864)に活躍した人であり、横川中堂本尊は12世紀後半の作であるのが最新の見解(『最澄と天台の国宝』図録 ※それ以前に祖形像があった可能性もあるが)、そして今回集められた聖観音像のうち「円仁ゆかり」のものは12世紀のものが圧倒的に多いということである。ということは佐藤弘夫氏が述べているように「慈覚大師中興の伝説を持つ...寺院の多くは、11世紀後半から12世紀に天台系の聖によって再興ないしは創建されたものと推定される」(「奥羽の霊場論」『霊地・霊場・聖地』東北中世考古学会2005)ことに関わるのではないかということである。その多くは古い寺院の再興を担っていたとされる(同氏の『霊場の思想』)。
(東北中世考古学会『霊地・霊場・聖地』資料集2005表紙)

霊場の思想 (歴史文化ライブラリー)

霊場の思想 (歴史文化ライブラリー)

時枝務氏によれば羽黒山頂では10〜11世紀に祭祀が始まり、御手洗池の羽黒鏡は京都に特注した可能性があるという(「考古学から見た羽黒修験」『千年の修験』)。したがって10世紀には山林(岳)修行者が存在した可能性もあり(熊野では8世紀後半から)、12世紀には京都のネットワークが完成していたことになる。名取熊野那智神社床下出土のの懸仏(御正体 健治二年1276銘)から羽黒社の存在を指摘した千々和到氏の指摘は改めて大きな意義をもってこよう(「寺・社を歩く─宮城県名取の熊野三社─」『日本史研究事典』)。これは羽黒社そのものに奉納した鏡の可能性もあるわけである。那智神社の第一主神が「羽黒飛滝大神」で第二主神が「熊野夫須美大神」であることは13世紀後半にはこの地に羽黒社があり、『封内風土記』(近世)では那智山物響寺の初号は「羽黒山」であり、那智権現勧請後に「那智山」となったという伝承を踏まえれば那智社の前に羽黒社があり、その後に合体してやがて那智社の名を掲げたに至ったことになる。そういえば青葉山の巨大板碑の立つ場所も寂光寺跡であった。岩切覚性院にも1189年創建の伝承がある。羽黒ネットワークは中世前期には出羽のみならず太平洋側、特に仙台平野に達していたということか?
また、(『霊地・霊場・聖地』の鴇崎哲也氏の「名取熊野」を参考にすれば名取熊野社の麓から旧名取川流域には河原石にる膨大な板碑が産み出されており、名取熊野社僧の主導も考えられる。
千年の修験―羽黒山伏の世界

千年の修験―羽黒山伏の世界

集英社版 日本の歴史 別巻 日本史研究事典

集英社版 日本の歴史 別巻 日本史研究事典

熊野は園城寺(三井寺)が寛治四年(1090)以来、歴代の三山検校に就任しているので、寺門派が強く、東北地方では円仁系の山門派が強いということになるのだろうか? 熊野信仰集団には二つのネットワークがあるのだろうか? もっとも11〜12世紀にかけて天台系修験(山伏)の拠点となっているようなので支配者層の所属にこだわる必要もないのだろう(宮家準『熊野修験』)。そして熊野・羽黒など諸霊場で修行したとされる(『平家物語』)真言宗僧文覚(1139-1203)のように天台系にのみ限定されるわけではない。したがって彼等の信奉する本地仏の形などにある幅があることは実際には今回集められた観音の像容に幅があることと関係するかもしれない。
熊野修験 (日本歴史叢書)

熊野修験 (日本歴史叢書)

今回は特に武士団との関係はふれられていないが、少なくとも鎌倉時代において熊野信仰が武士団の同族信仰の絆として各地に勧請され、その解体・滅亡後も村の鎮守として存続して現在に至ったとする五来重氏の指摘(『熊野詣』)は基本的には東北地方にも当てはまるのではないだろうか。
熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

それにしても、「修験」と「天台聖」の重なり具合はどうなのか? この12世紀の東北地方の宗教界を牽引した「円仁の法系に連なる人々」とは具体的にどういう人々なのか? どういう変遷をたどったのか?今回はふれられなかった葬送との関わりを含め、各界の研究者を集めてクロスチェックするシンポジウムをやると面白いと思う。
http://itigo.at.webry.info/200509/article_6.html
http://itigo.at.webry.info/200605/article_1.html
おわりに
こんなに中身が濃い展示なのに観客は少なかった。ブログ検索でも中身にふれたものは少ない。一般の人に関心を持ってもらい、展示を分かりやすくするというのは難しいことと思った。壁に並べられた御正躰(体)は老化した目にはしんどい。まずは仏像と対話してはどうか。12世紀後半、平安時代の終わり頃、東北地方には慈覚大師円仁を敬愛・標榜する天台聖たちが熊野信仰と融合・変形しながら出羽三山信仰など独自の信仰体系を生み出しつつ(その逆かも知れないが)活躍していたという“新しい歴史像”を展示された仏像群などが秘めているのかも知れない。
東北地方を舞台にしたあまり知られていない物語に中世(鎌倉時代に遡るかも)の『もろかど物語』がありますが、主人公の師門(もろかど)を最後に蘇生させた三人の僧は熊野権現羽黒権現塩竈明神の化身であった。
中世の人々の救世主である熊野権現羽黒権現に会いにいきませんか? 図録を読んで考えたことを確かめに私もまた行かなくては...
・公式HPhttp://www.thm.pref.miyagi.jp/special/special_h18/outline3_kumano.html