奈良時代の役所跡


別な調査区では長軸1.7m(最大)の柱を入れる大きな穴から構成される大規模な掘立柱建物跡(全長24.5m 幅5.5m)が発見されました。柱を抜き取った穴から出土した須恵器坏は8世紀前半のものです。

周辺の調査から一定の地区を区画した役所跡の一画の建物跡と推定されています。また、北側の六反田遺跡の竪穴住居跡からは円面硯が出土しており、役所との関連性があるかもしれません(「現地説明会資料」『宮城県遺跡調査成果発表会発表要旨』宮城県考古学会より)。なお、16日付け朝日新聞によると「幅約3mの溝跡が南北261m、140m以上のびている」とあり、正確な情報であれば「役所」の外を囲む区画溝の可能性があります。
古代の役所
仙台平野では当時の政権に属さない蝦夷支配の拠点として7世紀後半、当遺跡の北東約1.5kmの名取川沿いに郡山遺跡(国史跡)の城柵が設置され、7世紀末には周辺に計画集落を伴って国府的役所として再編され、8世紀初めまで存続します。さらに724年頃(多賀城碑)には現在の多賀城市の丘陵に陸奥国多賀城(国特別史跡)が置かれますが、本遺跡は年代的に両者の間にあたる重要な役所と考えられます。また、支配拠点が多賀城に移ったのに関わらず、現在の仙台市内(木の下)には8世紀半ば頃に陸奥国分寺・尼寺が置かれています。
本遺跡の付近では中世の幹線道路(奥大道か)や居館跡(王ノ壇遺跡※「王ノ壇」は現存する古墳で、中世には半分削って墳墓堂が建てられており、「大野田」地名の発祥の場所といわれています)も発掘されており、名取川の渡河点に位置することから水陸交通の要衝に位置する公的な施設(駅家、郡家などいろいろな可能性がある)として、その範囲や実態の究明が楽しみな遺跡です。

(※掘立柱建物跡の位置をほぼ正確に示しています。右上のSATELITEをクリックして+で拡大すると北東辺に四角い住宅団地が認められますが、このあたりが現段階での推定「役所」です。)
・大野田古墳群(「仙台市の遺跡」)
 http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/iseki/c0000000024.html
・昨年の成果(宮城県発掘調査パネル展 県HP)
 http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/panel-ten/panel2004/2004panel.pdf
・郡山遺跡(仙台市HP 現地説明会資料)
 http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/kooriyama/kooriyama.html
・郡山遺跡・国分尼寺跡など(平成14年度仙台市HP)
 http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/pdf/72/all.pdf
大野田地区の遺跡とまちづくり
富沢駅周辺土地区画整理事業地内は地形的には名取川の自然堤防から背後の湿地にかけての地帯で、7割が埋蔵文化財包蔵地という遺跡の宝庫です(『宮城県遺跡調査成果発表会発表要旨』)。特に大野田地区は縄文時代(今年も下ノ内遺跡からアスファルトがいっぱい入った土器が出土しています)から中世にかけては人口集中地帯であり、古墳時代には支配層の墓域でもありました。微高地(自然堤防)周辺の湿地域は 弥生時代から数十年年前まで一大水田地帯でした。とりわけ奈良時代から鎌倉時代にかけては当時の政権が仙台平野をおさめる上で重要な拠点地区であったと考えられます。楽しませてもらった後に考えこんでしまいました。あたり一帯はやがて町並みに変わるのでしょうが、東北地方唯一の埴輪を有する古墳群や多賀城や郡山遺跡と関わる役所跡という貴重な歴史遺産を組み込んだまちづくりはできないものでしょうか。
・「名取川流域の歴史」(太白区HP)
 http://www.city.sendai.jp/taihaku/mati/discover/rekisi.html