山倉大六天─「疫の神の、荒び来て」修験のつくる特効薬

『修験がつくる民俗史』(菅豊)より

修験がつくる民俗史―鮭をめぐる儀礼と信仰 (日本歴史民俗叢書)

修験がつくる民俗史―鮭をめぐる儀礼と信仰 (日本歴史民俗叢書)

先にふれた千葉県香取郡山田町山倉字台、通称「黄金ヶ峰」(こがねがみね)に「サケのお祭り」(初卯祭 12月6.7.8日)で有名な山倉神社はある。社伝によれば弘仁二(811)年に僧円頓が大六天を勧請したのに始まるとされる。明治二年の神仏分離令により大六天は別当の観福寺に遷座した。『下総名勝図絵』(宮負定雄 1846年)には「祭神高皇産霊神なり」「疫病を病むもの此の神を祈りて霊験すみやかなり」として、昔、疫病を鎮めるために山倉大神を勧請したところ、この神にサケが飛んでくるかのように来る(太平洋に注ぐ栗山川の支流山倉川)ので、サケを疫病除けとして人々に分かち与えると記されている(「禍事をさけの魚こそ愛でたけれ」宮負)。また、このサケは「龍宮鮭」とも呼ばれた。なお、観福寺の方では主役は弘法大師空海となっており、大師秘伝の「サケの黒焼き技法」が伝わっている。
山倉神社、観福寺の講社は「病気治し」に評判が高く、東は福島県小名浜市、西は神奈川県藤沢市に及んだ。【かっては御師的宗教集団(「近世修験の変質過程を経て栄えた御師的修験」)が存在し、東北地方まで広めていった】と。
東京小石川の第六天でも「サケの黒焼き」が供されるが、筆者の菅氏は祭神の蔵王権現が金峰修験の主尊であることに注目し、「サケにまつわる儀礼」が「この系統の修験者が持っていた民衆へのアプローチ」の一方法とし、「黄金ヶ峰」も金峰に通ずるとする。
とすれば金峰修験は吉野にあり、「吉野」といえば南朝の本拠地である。ここでようやく護良親王伝説とリンクするかも知れない仮説が生まれるのではないだろうか?いかがでしょう。
・山倉大神社http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/tb3ymk.htm
・山倉鮭祭り
 http://www.kanko.chuo.chiba.jp/kanko/Shousai.do;jsessionid=C6B0207AD6020920A988F71778C9A4D8?sid=2219&k=2&t=2
 
 ・栃木県河内町古田の山倉大神
  茨城県下館市の山倉神社が室町時代に千葉県佐原の武士宮内が分霊したとする伝承が興味深い
 http://www.town.kawachi.tochigi.jp/08tanbou/240/232.html
よくみようとすればするほど神々は近世、近代に再編され、中世が垣間見えるていどであった。ただし、牡鹿地域に関しては古代豪族の道嶋嶋足(8世紀)などが蝦夷支配の前面に立ち、7世紀半ばにはその前身の丸子氏の東国からの移住があり、当然に神々も一緒に来たわけであろう。平川南氏によると【『日本書紀神護景雲三(769)年にみえる牡鹿郡の俘囚大伴部押人の先祖の地は紀伊国名草は神功皇后新羅征討説話ににみえる「紀伊水門」であり、紀伊水軍の根拠地であるとする。そして8世紀以前において紀伊水軍は征夷のために石巻湾から侵攻し(そういえば『日本書紀仁徳天皇紀55年のに蝦夷征討に派遣された上毛野田道が「伊寺水門」で戦死した記事がみえ、この「伊寺水門」が「いしのみなと」すなわち石巻港とする説があった)、途中寄港地の九十九里浜の有力者とともに牡鹿の豪族道嶋氏とともに勢力を伸張した】とする(『石巻の歴史 第六巻特別編』1992年)。
したがって、中世以降たびたび再編される神々も、その時代の痕跡をわずかにであれ残してくれていると思いたい。
課題は見えたが、後は地道な検証しかないのでとりあへず終了。
                                          (070124付記)