水運の要衝を囲む神仏の配置

山岳信仰の山』というHPの「宮城県の山」の大六天山の項には、梵鐘に祭神「彦火火出見尊」とともに「牡鹿の開拓神」と書いてあったという(第二次大戦で供出再鋳造したのが現梵鐘)。
彦火火出見尊と第(大)六天との接点は箱根神社の祭神が彦火火出見尊で境内に第六天社があるくらいしか分からない。本来別の神の流れが大六天山で出合ったと言うことか?
改めて石巻近辺での関連する神々の配置を見ると、万石浦を囲むように北の上品山と南の牡鹿半島の付け根の大六天山に彦火火出見尊、そして西側の旧北上川(古代には志波城(盛岡市)方面、中世には平泉方面に向かう基幹水運)河口(付近に平泉の外港としての「牡鹿湊」)を見下ろす牧山に海神豊玉彦命(娘が火火出見尊の夫である豊玉姫)を祭る零羊崎(ひつじざき)神社がある。なお、石巻市真野の零羊崎神社の祭神は豊玉姫である。牧山の零羊崎神社の縁起によれば、「応神天皇2年、神功皇后の勅願により涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)の名を授かり東奥鎮護のため牡鹿郡龍巻山に祭られた。「涸満瓊別神」は、干潮・満潮を別ける神を意味し、後に、この神名が零羊崎になった」とされ(『俳聖芭蕉みちのくの旅・石巻』)、前述の「干珠満珠型三韓征伐」譚とも関わることになる。これらは水運(牡鹿湊─北上川)の要衝(水陸交通の結節点ともいえる)をとりまく神仏の配置に関わると考えておきたい
なお、牧山は元、魔鬼山とも書いたとされ、弘仁七(816)年に魔鬼山寺を牧山寺としたとされる。坂上田村麻呂(758-811年)が魔鬼女の菩提弔うために勧請し、法相宗の僧延鎮が創建したとする説と慈覚大師円仁(794-864年)開山伝承があり、平安時代法相宗ついで天台宗が関わった可能性があり、伊藤清郎氏は国家の蝦夷経営と結び「夷民教化・辺境安穏」の役割を担ったとした。大石直正氏は牧山の麓に板碑が多く残っていることから中世には「死者のこもる山」とみられていたとする(以上『石巻の歴史1』参照)。松島湾における雄島のような役割になるだろうか。小生は佐藤弘夫氏の12世紀頃東北地方を覆う慈覚大師円仁開山伝承形成の動きを評価している。
さて、彦火火出見尊青島神社や隼人伝説の地、鹿児島神宮が有名だが、日向国より勧請との針浜伝承に留意すれば、有名な青島神社の祭神彦火火出見尊が想起される。
この牡鹿半島の北側の雄勝に伝わる雄勝法印神楽の「産屋」では豊玉姫の産屋を覗いてしまう彦火火出見尊が登場する(my写真参照)。元文四(1739)年の「御神楽大事」という記録が伝わっている。山伏神楽とか大乗神楽と呼ばれており修験系の神楽である。羽黒修験の影響が強いとも言われている。したがって石巻・女川地方の彦火火出見尊豊玉姫伝説の普及には修験が大きな役割を果たした可能性が高いのではないだろうか?
青島神社HPhttp://www9.ocn.ne.jp/~aosima/yuisyo.html#ご由緒
鹿児島神宮http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE
雄勝法印神楽(宮城県文化財保護課HP)
 http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/siteibunkazai/miyagi-no-bunkazai/09minzoku/02minzoku/kuni/03okatu.htm 
・牡鹿法印神楽(これも見たことはないが修験色が強いとされている)
 http://www.google.com/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=GGLD,GGLD:2004-42,GGLD:ja&q=%e7%89%a1%e9%b9%bf%e6%b3%95%e5%8d%b0%e7%a5%9e%e6%a5%bd
やはり、「干珠満珠型三韓征伐」譚や彦火火出見尊伝説」をいつだれが広めたのかが問題である。有明海となにかでつながっていると面白い。そういえば東北地方の修験系神楽には「三韓征伐」を題材にしたものがあるので、中世後期?の修験(山伏)の活動も留意する必要がありそうだ。実際の年代はどこまで遡るか分からないが、女川近辺では少なくとも江戸時代には大六天神は漁の神=海神として理解されていたようである。建長寺の四方鎮守(南方鎮守)である第六天社では昨年第六天像が盗まれ話題となった。江戸時代には疫病神であり、方位鎮守であり、さまざまな地域民の願いを代弁してきた神の性格の変遷過程は人々の心の歴史と仕掛け人であった修験者等の活動を物語るものであったか。

(鬼女となりわが子を守る豊玉姫と彦火々出見命)