彦火火出見尊伝説━護良親王伝説


(彦火火出見尊雄勝法印神楽」)
宮城県の地名』によると女川町横浦とともに共同で祭礼を行なっていた針浜は『風土記御用書出』によると、元弘─建武の頃(1331-36)後醍醐天皇の皇子が左遷された際、彦火火出見尊の旧跡を移し、彦火火出見尊(山幸彦)が兄の釣針を失い、赤目の口から針を見出したとする故事が紹介されており、針浜の旧跡・名石・滝は日向国から移されたものとしている。前述の山幸・海幸説話とリンクしてくることは注目される。後醍醐天皇の皇子云々はもちろん史実としては確認されないが、後醍醐天皇の第八皇子の義良親王(後村上天皇)は南北朝期の暦応元年(1338)、伊勢大湊より南朝勢力の劣勢挽回を期して北畠親房とともに東国に向かうも遭難した際、牡鹿湊に着いたと推測されている(実際は引き返している)。地元では「朝臣宮」は「後醍醐天皇の子、護良親王が牡鹿に着いた時その護衛にあたった日下氏・日野氏・平塚氏等忠臣の家を祀った神社といわれている。この場所は『御所浦』と呼ばれ、葛西清貞が延元3年(1338年)伊勢から奥州に向かう途中に暴風に遭った義良親王(ママ)を迎える仮寓(御所)を建てたのにちなんだ地名」、「淵(野)辺義博の計らいにより石巻に逃れた」護良親王を祀った「一皇子宮」など護良親王伝説で彩られている。この推測は当時、南朝に対し、葛西氏のバックァツプがあったことに由来しているとされ、(紫桃正隆氏著作など)。葛西氏が義良親王を迎えるにあたり準備した場所に関わるという解釈もありうる。当地の第(大)六天信仰自体、関東武士団の葛西氏が東北移住の際に持ち込んだ可能性もあり、護良親王伝説形成(修験者によるものか)を取り込む基盤となった可能性もあろう。
朝臣宮[石巻市川口町 石巻市観光協会HP]
 祭神は護良親王家臣の日下・日野・毘羅塚・福原・淵辺氏の霊
http://www.i-kanko.com/history/every/jinjya1.html
・一皇子宮[石巻市観光協会HP]
 祭神は護良親王
http://www.i-kanko.com/history/every3/shiseki.meisyou2.htm
・淵辺義博(相模原市郷土の歴史研究会「相模原の歴史シリーズ」より)
 http://www.sys.gr.jp/sagami/rekishi/fuchinobe.html
・海幸彦・山幸彦(ウィキペディア)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E5%BD%A6%E3%81%A8%E6%B5%B7%E5%B9%B8%E5%BD%A6
・葛西氏(「かつしか郷土史探訪」より)
 http://www.bekkoame.ne.jp/~k-sigeki/KATSUSHIKA/toti.hito.rekisi/kyoudosi13.html

                  (豊玉姫雄勝法印神楽」)