生木の如意輪

ここで念願の767年ぶり(寺パンフによると)!の公開という如意輪観音像を拝む(拝観最終日!)。端正な美しい小像(高さ19.8㎝)であった。精緻な切金文様も美しい。
姫路観光協会のトピックスなどによると早稲田大学と県立歴史博物館の調査ではサクラ材一木造の鎌倉前期の制作(岩座裏の墨書名「延応元年」1239年の可能性が高い)。1492年に焼失した平安時代に造られた本尊(根がついたままの生木?)の次の本尊説もある。
http://www.bunkaken.net/index.files/topics/hibutu.html
一遍が弘安10年(1287)にこの地を訪れ、書き写す山は高嶺の空に消えて 筆も及ばぬ月ぞすみけると詠んで拝観を許された本尊はこれだったのであろうか?しかし、二代目は1492年に登場したはず。
「生木の如意輪観音」は当時、各地の霊場で喧伝された「生身の仏」と同様「特別に霊験あらたかな仏像」を強調したものではないかと思う。すなわち佐藤弘夫氏(『起請文の精神史』2006)のいう「仏の出現」に匹敵する「彼岸の仏との直結」する垂迹の仏で生々しい存在感と激しい効験を示すものである。その「生身の仏」がいる霊地に行くことが極楽往生の確実な早道という信仰に基づくという意味である。また、性空上人が崖の桜を拝む天人の様子を見て、生木より如意輪観音を刻んだという伝承は、像の効験を高めるためとともに霊木信仰の系譜というものがあるのかと思う。石山寺の初期密教像である如意輪観音も桜材てあり、空海が神呪寺(西宮市)の如意輪観音を山頂の桜の巨木で刻んだという伝承もある(実際は檜材らしいが)。小原二郎氏によれば日本の仏像用材の一つにサクラ系があり、清涼寺釈迦如来(985年造立)のように桜桃(中国産のサクラの一種)の輸入が源流とのこと。この清涼寺釈迦如来こそ平安時代末から「生身の如来」として多数の参詣・参籠者を集めた仏なので(4月8日 釈迦「生誕」によせてhttp://d.hatena.ne.jp/kanjisin/20060408)、やはり佐藤氏のいう「生身の仏」と「生木の如意輪観音」とには一定の共通項がありそうだ。そして霊木との関わりも。勉強しなくては...

左のポスターの像が開山の性空上人(?─1007年)。近年、発見された11世紀の像。最も実像に近いとされる。従来の像は特徴を強調しすぎているようだ。九州の霧島山背振山法華経を唱えながら山岳修業の後、この地で円教寺を開き、生きているときから霊異談にとりまかれ、986・1002年に花山法王御幸があり、「王権との関わり」の中で書写山は巨大な霊場となった。しかし、性空上人は書写山北麓に新たに弥勒寺を建てて隠棲したという。そうすると上人は権力の庇護のもとでの栄華を望んでいたわけではないのでは という思いもする。91もしくは98歳のの長寿を保った聖の姿を伝える。山上のいたるところに「性空上人一千年御遠忌」の旗がひらめいていた。
・「円教寺僧形坐像」http://www.shosha.or.jp/engyoji/main/bunka/syounin/syounin.htm

書写山

樹齢700年 中世を眺めた杉

キャプション

鐘楼 説明に「鎌倉時代」とあり驚く。

十地院の「はづき茶屋」 女ご主人が「ラストサムライ」のトム・クルーズの休憩所になったことやロケのようすを話してくれた。この映画がもとで茶屋をやるようになったとのこと。冷茶セット(葛切りつき)300円などで播磨灘を望んで(この日は見えなかったが)ゆっくり休める塔頭で、お奨め。庭にモンキアゲハ

      (冷茶セット)

室町時代に建てられた食堂(じきどう)。先の女ご主人の話ではNHK大河ドラマ武蔵のロケ地。あーそうだったのか。姫路城主本多家廟所には本多忠刻に殉じた武蔵の養子、三木之助の墓碑もあるとのこと。

内部

反対側。室町時代にタイムスリップしたようだ。

食堂より左手は大講堂、右手は姫路城主本多家廟所

さらに白山権現に登る。もともとはスサノオの尊を祀っており、「書写山」名の元とされる。性空上人が如意輪観音を感得した場と伝えられる。標高371m。

書写山の説明板

奥の院 開山堂 性空上人の御像が垣間見えた。

護法堂 性空上人に九州の修行以来仕えた乙天(右)と若天童子(左)の鎮守社