和泉式部歌塚伝説と宝篋印塔

一条天皇中宮彰子とともに登ってきた(女人禁制ではなかったか)和泉式部に会おうとしない性空に「暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月」と詠んで性空に会えたという伝承がある。しかし実際は中宮彰子の参詣は確認されていないし、この歌はそれ以前の大江雅致女として拾遺集に見られるという(川口汐子いしぶみに逢いに」『Bancul №40』2001)。もとより式部は平安中の歌人なので後に述べるように宝篋印塔の年代とは合わない。
1230年代に出現した宝篋印塔は高山寺塔が宋人石工の伊行末により制作された明恵上人の髪爪塔とされるように(山川均「石造宝篋印塔の祖形を探る」『中世の対外交流』2006)高僧など高位の階層の遺骨などを納める供養塔という性格からは鎌倉時代の笠塔婆の存在とともに、本来、境内には貴族など高位の階層の供養塔が相当数立てられていた景観が想定されよう。説明板には天福元年(1233)10月26日と刻まれているとある。そうすると出現期の貴重な宝篋印塔となる。書写山年表によるとこの年の一ヶ月前に大講堂の造立供養が醍醐の覚心上人を導師として行なわれ、この前後に五重塔等重要な建物が建っていることから書写山隆盛の時期を背景としているとみられる。
それにしても和泉式部の伝説は各地に残るが、その歌塚や墓と云われるものに宝篋印塔が多いのは興味深い。著名なものに京都市誠心院(正和二年1313)、天の橋立にある宮津市智恩寺土佐清水市金剛福寺(黒髪を埋めた逆修の塔とされる)、和歌山県本宮町伏拝往事王子(熊野権現御子神 月のさわりでも受け入れるというアピールを時宗念仏聖がしたものとされる。ただし宝篋印塔としていいか未確認)、丹生山田と西日本の鎌倉時代に造立されたものが多いようだ。この伝説を広めたのは彼女の庵があった京都誓願寺の尼さん説(柳田国男)や高野聖や歩き巫女の勧進説があるらしい。また、五来重氏は和泉式部説話を各地に伝播し、その墓を造ったのは時宗の徒であり、その中心が京都誓願寺和泉式部の墓とする。いつ、だれが、なんのために広めたのか。少なくとも造立時の鎌倉時代には和泉式部関連とはされないはずなので、これはまた追求してみたい歴史の謎である。
(説明板)

熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

熊野詣 三山信仰と文化 (講談社学術文庫)

平安京探偵団http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian28.html
金剛福寺http://www.city.tosashimizu.kochi.jp/users/112/bunkazai/bunkazai-c35.htm

ガクアジサイと思ったが、ここはヤマアジサイの名所とも。

ここまで来たら、ガイドブックに「観光客はめったに来ない」と書いてある行者堂へ。
そして...サインも少なく、迷ってしまい、黒い蛇も横切り、やっと密生するシダの道を沢に下り、
麓から歩き続けて計6時間...ようやく到着。

疲れ果てて摩尼殿前の食堂で昼食、帰途に着く。

             (阿弥陀如来 笠塔婆)
おわりに
性空上人亡き後も承安四年(1174)に後白河法皇御幸、平清盛一切経施入(後白河法皇の命)など歴代権力の庇護を受け「王権との関わり」の中で名だたる霊場となった書写山。恐らく鎌倉時代には高位の人々の供養塔が立ち並んでいた景観を想像することができた。ロープウェイで一挙に登ってしまう点では比叡山高野山と同じであるが、これらが「町並み」と化しているのに比べると自然に囲まれた寺院群を含めた文化遺産がよく残っている。しかも時代劇のロケさへできてしまう。あのトム・クルーズの休憩した部屋は喫茶の部屋となったが、壁にロケ写真が飾っているわけではなく、お店の方がその時の写真を見せてくれるつつましさ。お坊さんの眼や仕草もわたしの体験からするかぎり比叡山高野山に比べ活き活きとしていた。“世界遺産でなかったんだっけ”

性空上人様さようなら (摩尼殿の下の三十三所堂 江戸時代の各地の霊場のミニチュア化のようだ)
・関連HPなど
http://www.asahi.co.jp/rekishi/2005-07-04/01.htm
http://www.k2.dion.ne.jp/~ty8817/newpage66.htm
西国三十三ヶ所ネットhttp://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku27a.html
書写山―遊歩ガイド

書写山―遊歩ガイド