北目山賢聖院

あの東北各地の大寺(立石寺など)を開いたとされる慈覚大師(天台宗第三世 円仁)の弟子良性法師が延久元年(1069)に北目(太白区郡山)に創建し、慶長年間(1596-1615年)に北目町に(恐らく住民とともに)移転したと伝えられる由緒ある寺(円仁のお弟子さんの名前がしっかり伝わっているのが他の寺々の伝承と異なり真実味がある)。
そもそも、現在の北目町の由来は名取郡北目(太白区郡山)に住んでいた国分氏の家臣が移住したことによる。その北目は名取川(と幹線道路の結節点付近)に臨む要害にあり、中世には北目城(戦国時代は粟野氏→仙台城築城の時は伊達政宗)が構えられた軍事・交通の要衝であり、天台宗の寺もあった栄えた所。康暦二年(1380)性円法師の中興も北目城(館)主の藤原宗房(粟野氏と思われる)によるとされる。粟野氏はもともと越中(富山県)粟野が本拠地だが、南北朝時代(1336-1392年)に北朝(足利尊氏方)方として活躍、名取郡に領地を得たという(『宮城県姓氏家系大辞典』)。賢聖院(けんじょういん)も時の領主権力の盛衰とともに流転しつつ生き抜いて来たのであろう。
気になったのがご本尊の「毘首羯摩」(びしゅかつま)。京都嵯峨の清涼寺釈迦如来、鎌倉の常楽寺、平泉中尊寺経蔵の文殊菩薩などのように各地の名だたる仏像の作者としてその名が伝えられているが、仏像を制作する仏師の祖とされ、帝釈天の弟子ともされる伝説的な仏像創始者のようだ。ちなみに鎌倉時代の『吾妻鏡』に東大寺大仏を復興した陳和卿を評して「毘首羯摩の再誕」と評している。

なにか懐かしい風景...

町民カラオケの続く中、帰りがけにふと、観音堂を見たら、住職さんが一心に読経しているのに感心。

北目町─伝馬衆の血─
17世紀の初め頃、仙台城下町の建設の時、今の国道にあたる奥州街道沿いの重要な地区である北目町は国分町とともに宿駅(旅人や荷物輸送の人馬を備えた所)の置かれた「伝馬町(てんままち)」であった。国分町をつくった人々が戦国時代に薬師堂(陸奥国分寺白山神社の地)付近の国分氏の拠点である小泉城(現在の宮城刑務所・若林城跡周辺か)付近に住んでいた土豪的伝馬衆であり、北目町をつくった人々も北目城の近くに住んでいた土豪的伝馬衆と考えられている(『仙台市史 近世1』)。その血が続いているのであろうか。
祭りによせて
新聞によると、明治・大正の祭礼の時は街道沿いに七夕のような仕掛けが並んで賑わい、江戸時代には十二月御日市の利権が与えられた御札場のある守護仏であったからその賑わいはさらなるものであったと思われる(『辻標』仙台市教育委員会)。先の新聞記事は先日の柳町同様、地域のお店の合同広告であり商店主さんが現在の牽引力のようだが、地域の人が心から楽しんでいる様子が心よい。今回の訪問で今頃「北目」の意義を再発見。謝。
100万都市の中では猫の額のような空間だが、ぜひ、永く続いてほしいものだ。
◎本祭り・子供おみこしは23日!
参考⇒北目城跡(『仙台の遺跡』仙台市HP)
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/iseki/c0000000042.html