『十七歳の硫黄島』

十七歳の硫黄島 (文春新書)

十七歳の硫黄島 (文春新書)

さらにこの本の存在を知り、ほぼ夜を徹して引き込まれて読んだ。右手三本を失いながら九死に一生を得た秋草氏。「見ること、自分で確認して情報を正確に伝達する」通信兵の冷静な記述が、栗林中将率いる総攻撃後、三ヶ月も続いた将兵達の「地獄」の戦場を描いて「戦争の真実」に迫っている。
やがて、これらの一兵卒たちの手記を読むうち、
硫黄島の狭い地下壕のひどい地熱や血や腐乱死体や排泄物の絶えられない臭いの中で蚤・虱・蛆を食べても生きた彼等と膨大な死者たちの思いが、モノクロのような映画の記憶に耐え切れない臭いと鮮やかな色を帯びて現実味を喚起してきた
秋草氏は砲撃で右手指三本をとばし、左脚大腿部を打ち抜かれ、やっと地下壕の「安全」な「霊安所」で、ぬらりと腐乱した死体の群れを踏みしめながら、「燐の群れ」に取り囲まれ、「おばあやん」が唱えていたあらゆる「呪文」を並べ立てて逃れ、さらに毒ガスそして死骸や排泄物混じりの水攻め、火攻めを受け、次々と死んでいく兵士の中で炭を食べてでも生きて行く。
硫黄島からの手紙」では島の位置的関係や経過がわかりにくいが、本書では冒頭に島の地図が掲載され、時間的経過に沿って記述されている。長い年月に渡り書き続け、推敲されられ、61年目に公開という点は、ある意味で「物語」として整理された「記憶」でもあるだろうが、想像を絶する悲惨さだ。映画を見た人は栗林中将率いる総攻撃後の「地獄」の様子を知っていただきたいし、見ない人にも、ぜひ「一兵卒の描いた戦争の真実」を知るこの新書をお奨めしたい。その上で見ると、俄然、映画が真に迫ってくるかもしれない。
氏が巻末の「謝辞」で述べる「最期の言葉」の事実も心にひっかかっている。
兵士たちの合言葉は「靖国神社で会おう」だが、最期の言葉としては「敵前に身をさらし(中略)直撃弾などで戦死するものの多くは「天皇陛下万歳!」と一声を上げて果てた。重症を負った後、自決、あるいは他決で死んでいくものは「おっかさん」と絶叫した。負傷や病で苦しみ抜いて死んだ者からは「バカヤロウ!という叫びをよく聞いた。「こんな戦争、誰が始めた」と怒鳴る者もいた。」
半藤一利氏は映画「硫黄島からの手紙」に対して本来は「日本人が作るべき映画」と評した(朝日新聞12.13)のは、同感であるが、いつか、やる気のある日本人監督が出てきたその時は膨大な日米の死者たちの思いを代弁したこのような一兵卒達の「地獄」の経験をも総合して描くべきであろう。
そして、冒頭の秋草氏の言葉を受け継いで、膨大な戦争の犠牲者に報いるためには、以上の庶民の視点とともに半藤一利氏、さらにはスマナサーラ長老のいう戦争を起こさないための考え方こそ、今後の世界のために重要であろう。なぜなら世界の現実はイラクの米軍死者は9.11を超え、正確な数さへ知られないイラクの人々の死者は10万とも云われ、戦争の危機はいつでも身近に潜んでいるからである。
・「先の戦争も“平和のために”ということで始まったんです。八紘一宇(はっこういちう)の精神だとか、東洋平和のために、戦争にかり出されていったんですから。私自身もそういうことで硫黄島に行ったはずなんです。今は米国に押しつけられた平和なのかもしれないけど、平和の路線を敷いてくれたのは事実ですから。そこにどういう枝をつけ、花を咲かせるのかは、今度は日本の側が考えるべきことです」(秋草鶴次「硫黄島の真実」(東京新聞Chunichi Web PressHPより)
◎「硫黄島からの手紙」関連記事が詳しい『夢現日記』さんの記事
 http://blogs.yahoo.co.jp/barry_guiler/26179996.html
・「水木しげると戦争」http://d.hatena.ne.jp/kanjisin/20061208
  ※水木しげる氏の「硫黄島の白い旗」という作品の存在を知り、ぜひ、読んでみたいと思うが入手困難か
上坂冬子氏の感想(文藝春秋HP)
 http://www.bunshun.co.jp/pickup/ioujima/kamisaka.htm