『硫黄島戦記─玉砕の島から生還した一兵士の回想』


昭和14年(1939)より日中戦争に従軍、硫黄島で司令部で通信分隊長。昭和20年(1945)5月、軍医部の天然壕にて投降した一兵士が昭和55年に書いた記録(川相氏は現在88歳)。「硫黄島関連図」は壕の平面略図が載る等詳細(ただし、戦闘状況の推移は秋草氏著の方が詳しい)。後述する秋草氏よりはやや食糧に恵まれたいたとはいえ、それに故に周囲では生き延びるための殺し合いがあり、負傷兵が「薬品処理」(川相氏推測)されるなど、別な「地獄」の様相が描かれている。ブルドーザーでで壕口を掘り、ダイナマイトで破壊していく米軍。幸運にも死を免れて、5月5日、壕口でニコニコ顔の米軍将校と日系二世兵士が投降者たち(「M憲兵」も)を迎える。捕虜となって米軍協力者へのリンチの横行に苦々しい思いでようやく、帰国した川相氏を迎えた現実は、最愛の妻が弟と結婚していたこと、関係遺族と会うつらさであった。
なお、川相氏が司令部壕を行った時、遠くであの栗林中将が参謀等と別れの杯を交わしていたという(産経新聞『刻まれた記憶 硫黄島の61年』(三))。本書の解説の大野芳氏は栗林中将の側近との対立の激しさを指摘するとともに、栗林中将の死の真相は栗林中将投降と部下による射殺説を紹介している。現段階で確実なのは、井上硫黄島遺族会副会長の言として(最期は)「誰も見ていないから分からない」。生還者1033名という数字については昭和55年に政府が正式に認めたもので、実際には増える可能性を示唆している(070115付記)。