大六天の謎

伝承によると仁和元年(885)に僧全圃が大六天山三国寺を創建したという(『石巻の歴史1』)。『風土記御用書出』(1722年)には神功皇后の「三韓征伐」の後「干珠満珠の霊徳」を勧請したとしている。海上から金華山同様、漁師や船乗りの目印になっている。現在は海上の田代島の大六天神社と同様に漁師の神。しかし、本来、鎌倉時代には無住の『沙石集』や日蓮の教説にみられるように仏法の敵。『日本民俗大辞典』によれば第六天を祀る寺社は房総をはじめ関東地方に分布し、本山は千葉県香取郡の観福寺(真言宗)とする。『神奈備掲示板によれば静岡県から福島県に分布し、平安時代以降、神仏習合により成立したという説が紹介されている。観福寺は下記HPによると、弘仁二年(811)に最澄が開基したとされるが、弘法大師が「伝染病で苦しむ姿にあい救わんと大六天(他化自在天王宮)を勧請」し、現在は真言宗であるので変遷が認められる。ここでは疫病退散の役割が窺え、さらに村民が生鮭を大師に献納したという伝承も漁師の神の性格も窺えるのかも知れない房総石造文化財研究14号の沖本博氏によると少なくとも江戸後期には疫病神の性格が濃厚であり、密教系修験者が広めたとするのは興味深い。さらに同15号では関係文献が紹介されており、「第六天信仰の展開(木村博「日本民俗学」127号昭55・3)「新編相模国風土記稿」に第六天社が百四十社、「新編武蔵国風土記稿」には三百二十余社の第六天社の記載があるとする。また、「面足神社と第六天信仰」(守屋健輔 取手市史余録3)では第六天信仰の範囲を伊豆をふくむ関東地方と東北地方の一部で、特に利根川流域には多く、川に沿って信仰が伝わったようだという。前述の観福寺で配布するお札には、神馬にまたがり、太刀を振う荒々しい神像が刷られている、と紹介している。
なお、『宮城県の地名』によると大六天山に野生する万年青は「古くから貴重な皮膚病の薬として知られた」とある。「医薬品情報21」によれば「室町時代から日本で鉢栽培が行われてきた日本独特の観葉植物。乾燥させたものはマンネンセイ(万年青)と呼ばれ、強心、利尿薬として用いられる。」「漢方では、強心、利尿、解毒の効能があり、心不全や浮腫、化膿症、ジフテリア、毒蛇咬症などの治療に用いるが、毒性が強い」とある。あるいは病気を治す神の性格に関わる可能性はないだろうか? 以上のささやかな探索から、明治2年神仏分離令で「胡録神社」等多様にと名称が変わっているなどの名称変更があり分かりにくくなっているが、本来は大六天を祀ることは意外と数が多く、庶民の謎の神として興味深い存在である。
鎌倉期に仏敵とされた「第六天魔王」は、江戸時代に「大六天」として在り難き強力な神となったのか?その失われたリングは?
・山倉山観福寺 http://kanto88.net/kanto88_45.html
・山倉の鮭祭り(山倉大神「山田町HP」) http://www.city.katori.lg.jp/old/yamada/sight/215.html
第六天魔王説話(伝説探訪)
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/densetutanbo/

女川湾の朝日と石巻湾の夕陽、船の運航を見通せる極めて重要な場所。
御礼 今回は地元の方の案内のおかげで、よい踏査ができました。まことにありがとうございました。

             (女川町・大六天山の夕陽)
大六天と彦火火出見尊の出会い
「干珠満珠型三韓征伐」譚について
「よみがえる壹與─佐賀県「與止姫伝説」の分析」(月に達也氏市民の古代第11集 1989年 市民の古代研究会編 論考ーーよみがえる古代)を読むと、
  http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin11/yomitiyo.html
【干珠満珠は海神からもらったもので、海神すなわち海の民の王からの献上品と考えられる。山幸・海幸説話がバックボーンにあっての説話である。干珠満珠説話の発祥の地は潮の干満の差が激しい有明海と考えられる。河上神社(佐賀市 肥前一の宮 式内社)には文化財として今も干珠と満珠があるという(藤井綏子氏)。 (『八幡愚童訓』『河上文書』には干珠は白珠、満珠を青珠と記している。そして、それに対応するかのように『魏志倭人伝』には倭国の産物として「真珠」「青玉」があるという。海神の国はどこか。それは海幸の子孫と伝えられている隼人の国、鹿児島県地方ではないだろうか。】という趣旨のことが書かれている。潮の満ち干を操る二つの珠を「神功皇后海戦神話」に結びつけたのは中世八幡宮の作戦であるとの合田博子氏の指摘もある(『有明海の龍宮から佐賀平野を見る』)。